信扫描序列号:s1605
写信日期:1994-09-26
写信地址:日本
受害日期:无
受害地址:无
写信人:西森茂夫(马海燕译)
受害人:无
类别:其它(OT)
细节:寄来相片以及报纸的复印件,关于“索赔”关于“日中不再战”的一些看法。
童增先生:
今年史上少有的炎热天气持续不断,似乎将一切都晒干了,然而“寒到春分,暑到秋分”,时过中秋,终于有些好过了。
八月初,你与马海燕见了面。我听说你在精力充沛地活跃着。我的身体也有些[恢]复,八月底与著名作家早乙女胜元一起访问了曾经长期沦为日本殖民地的韩国。俗语说“百闻不如一见”,旅行可以使我们打开眼界。
九月十八日,为纪念“九•一八”事变,在高知举行了“揭露731部队真[相]”的集会,以及近60人参加的“日中不再战碑”建立两周年的纪念仪式。这些都是非常盛大的、有意义的活动。报纸和电视都进行了重点报道。侵华日军731部队罪证陈列馆馆长韩晓及鼠疫受害者的亲属靖福和先生参加了这两次集会,是一次历史性的集会。在纪念会上朗读了你的致词。你所说的“只有通过民间的自由交流才能实现真正的友好”,切中要害,在《高知民报》的短评专[栏]里进行了报道,请你阅读。
韩晓先生对童先生的活动也表示了理解,请充满信心地干下去。听韩晓先生说,对日索赔1800亿美[元]的证据材料,他已在美国华侨总会的杂志上看过了。最使人感到惭愧的是,战后已半个世纪,日本政府仍不肯正视加害者的事实,至今未对受害者进行个人补偿。这是违背日本宪法的精神的,必须通过提高社会舆论来改变。明年7月29、30日,记录高知空袭,战争灾害全国联络会议在高知举行,[届]时如果可能的话,我们想邀请你来高知,请考虑。代问尹、张两位先生好!
多保重。
西森茂夫
1994.9.26
(马海燕译)
童增先生
今年は例年になく猛暑が続き、何もしかも!千上がってしまいそうてしたか、暑さ寒さも彼岸までといわいますように、中秋をすぎやっとすきやすくなりしまっとしています。
八月始めに馬海燕さんがお会いできたようで、お元気で活躍されている様子をききました。私は少し元気になり、八月末に長い間、日本の植民地下にあった韓国を有名な作家の早乙女勝元さんと一緒にたずねました。百聞は一見にしかずといいますが旅はいっぺんに目をひらかせてくれる効能をもっているようです。
九月十八日には、九・一八事変を記念して七三一部隊の真相を究明する集いと、二年前できた日中不再戦碑前祭を行い、六十名ほど集まりました。いずれも盛大で有意義な集会となり、新聞やテレビでも大きく報道されました。この両方の集いに「侵華日軍七三部隊罪証陳列館」の館長韓暁さんとペストによる被害者の遺族靖福秋さんが参加して歴史的な集会となりました。
貴兄からのメッセージは碑前祭で朗読させていたにきましたが、民間の自由な交流こそ真の友好をつくるという内容は的をえていました。このことは高知民報のコラムにも書きましたすでごらんいただければ幸いです。
韓暁さんも童増さんらの運動に理解を示されていました。自信をもって進めて下さい。日本政府に対して要求している千八〇〇億ドルの根拠になる調査資料はアメリカの華僑総会を通して見たといっていました。一番はずかしいことは戦後半世紀たっても日本政府が加害の事実を直視せず与えた被害について個人補償はーないといっていることです、示は日本国憲法の精神にも違反していますので世論の力で変えていかなければなりません、来年七月二九日三十日高知で空襲、戦災を記録する会全国連絡会議があります、この時期に日本にこれるようでしたにご招待したいと思いますがご検討下さい、それでは張さんや尹さんによろしく.お元気で
94.9.26
西森茂夫
「731」元隊員11人名乗り
ノーモア細菌兵器
高知中国の遺族に誓う
十七日、高知市で聞かれた高知県七三一部隊研究会(栗原透会長)の交流会で、中国側参加者の呼びかけにこたえ、山本明司・前県議会長(七0)(自民)を含む高知県内の十一人が新たに隊員だったことを告白、「ノーモア七三一」を誓い合った。第二次大戦中、中国で細菌兵器の開発に当たった同部隊の実態解明は、戦後五十年をきっかけに、各地で進められているが、これだけ多数の元隊員が名乗り出たのは極めて異例。
交流会に招かれた「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」(中国・ハルビン市)の韓暁館長(五七)は、「七三一部隊はどういう部隊だったか」をテーマに講演したあと、「隊員といっても部隊の内容も知らされず、強制的に任務に就かされ点では犠牲者。友人として語り合いたい」と別室での対面を呼びかけた。
参加者約百人のうち、以前から元隊員だと認めていた高知市重倉、森岡寛介さん(七三)ら二人を含む十三人が一人ずつ進み出て、韓館長ら握手した。
山本氏は、社会党県議だった栗原会長とはかつての議員仲間で、「栗原さんの実態解明にかける熱心さにほだされた」と初めて元隊員の経歴を公表した理由を説明した。
山本氏よると、昭和十九年二月にハイラル支部に配属され、敗戦直前の一時期、支部長(軍医少佐)ま秘書も担当。部隊は表向き病気の予防を目標としていたが、二年目に入るころから細菌兵器研究のうわさが広まり、驚いたという。
「秘書時代に細菌兵器についての論文を見たことがある。ネズミを繁殖させて実験に使っていたのも確かで、細菌が周辺の村をむしばんだの事実と思う。中国に対しこうした振る舞いをしたことは日本人ま一人としてざんきに堪えない。十分な償いをすべきだ」と話した。
他の隊員も「私はネズミの捕獲作業に従事、増やしては本部に送っていた。(ペスト菌を媒介する)ノミも増殖させた」などと証言を寄せた。
七三一部隊員は解放時に身分を明かさないよう厳命され、部隊の存在自体が戦後も秘密とされたため、元隊員であると名乗り出るケースはまれ。
交流会には、終戦の翌年に部隊が残したペスト菌で家族十二人を失った中国黒竜江省の靖福和さん(六〇)も招待され、「遺族の証言」と題して体験を話した。
韓館長の話「侵略の責任は日本人にではなく、その政府にある。多くの日本人は七三一部隊についても事実を認めており、とくに若い世代に歴史の真実を伝えることが中日友好の基礎になる。さらに多くの隊員が真相を明らかにしてくれることを願っている」
译文
元「731」队员身份的11人的自白
向中国遇难者家属发誓不再使用细菌武器 高知
十七日,在高知市召开的高知县七三一部队研究交流会上,栗原透会长就中国代表的号召做出了回应,包括山本明司(前县议会长,现70岁,自民党)在内的高知县内的十一人,重新坦白了曾经作为队员的事情和经过,并且发誓“永不再现七三一部队”。第二次世界大战中,曾经在中国参与开发细菌武器的该部队的真实地阐明,以战后五十年为契机,虽然元队员自白这种情况在各地也时有发生,不过一次性会出现如此多的数量的状况还是极其少见的。
交流会邀请来了现任“侵华日军第七三一部队罪证展览馆”(中国•哈尔滨市)的韩晓馆长(现57岁),他以“七三一部队是怎样的部队?”为主题,讲演以后,呼吁“虽说是部队队员,但在部队内容未被清楚告知的状态下,强制地被迫执行任务,从这一点来看他们也是牺牲者。所以以朋友的立场在别的房间的见面,互相好好地交流。”
在参加者约一百人中,包括从之前坦白承认是原队员的高知市重仓,森冈宽介(现73岁)二人,一共十三人,依次上前,和韩馆长一行人握了手。
山本先生过去也是议会的一员,与曾是社会党县议的栗原会长是朋友,因为被栗原先生阐明真实情况的这份热诚所打动,第一次说明了公开作为原队员的经历的理由。
根据山本先生所述,他在昭和十九年二月被分配到海拉尔支部,战败之前的那段时间,也担任了支部部长(军医少校)的秘书。部队最初把预防疾病作为目标,不过从第二年开始,关于研究细菌武器的传言被四处传播,他也感到很吃惊。
山本先生说“我当秘书的时候,曾经查阅过关于细菌武器的论文。确切的说是使用在老鼠繁殖的实验上的,可事实上细菌也侵蚀了周边的村子。作为一个曾经对中国做出这种行为的日本人而言,非常惭愧。应该做出充分的补偿。”
其他的队员也留下了以下之类的证词:“我从事老鼠的捕获工作,数量增加的情况送到本部。(以鼠疫病菌为媒介)让跳蚤也增殖了”。
七三一部队队员在解放的时候,被严格命令不允许表明出身分,为了在战后也隐藏部队存在的这个事实,所以作为原队员自白的情况微乎其微。
交流会也邀请了,战后第二年,因为部队留下的鼠疫病菌而失去十二位亲人的来自中国黑龙江省的靖福和先生(现60岁),他以“遇难者家属的证言”为题,谈了自己作为亲历者的体验。
韩馆长说:“侵略的责任不在于日本人,而在于日本政府。大多数的日本人也承认了关于七三一部队这个事实,并且积极地向年轻一代传达历史的真相,奠定了中日友好的基础。在这里希望更多的队员们能够说出真相”。
韓暁館長(左)と握手する山本明司・前高知県議会議長
译:和韩馆长(左)握手的山本明司(前高知县议会议长)
毎日94.9.18
七三一部隊が及ぼした被害
中国人の遺族ら報告 高知市
第二次世界大戦中、中国の旧満州(現東北地方)で細菌戦や人体実験を行ったとされる旧日本軍七三一部隊が及ぼした被害などを、中国人の立場から報告する講演会が十七日、高知市鷹匠町一のNTTプラザ開かれた。
県七三一部隊研究会(栗原透会長)の主催。会場には元隊員十三人を含む約百人の市民が詰めかけ、戦後基地付近で流行したペストで家族を亡くした遺族らの証言に耳を傾けた。
中国・ハルビンの部隊近くに住んでいた靖福和さん(六〇)は「七三一部隊が撤退を前に施設を破壊した際、基地からウマやサル、ネズミなどかせ大量に逃げていくのを見た。そして翌年、付近の村でペストが大流行し、私の家族も十九人中十二人が二十日足らずのうちに死亡した」などと話した。また、ハルビンの「侵華日軍七三一部隊罪証陳列館」館長の韓暁さん(五七)は「歴史の認識こそが友好を前進させる」と述べた。
9.19 高知
「日中不再戦の碑」記念式典高知市
「両国人民の友好を」
韓さん(七三一部隊陳列館長)がメッセージ
満州事変からちょうど六十三年目の十八日、高知市桜馬場にある日中不再戦の碑の前で建立二周年記念式典が行われ、来高中の「侵華日軍第七三一部隊罪証陳列館」館長、韓暁(ハン・シャオ)さんがメッセージを述べた。また韓館長らは須崎市に元七三一部隊員を見舞い、「私はあなたのお友達」と呼び掛けた。
「不再戦」の碑の前でメッセージを述べる韓館長(高知市桜馬場)
日中不再戦の碑は昭和四十二年に籐並公園に木柱で建て、正式な碑はようやく二年前に桜馬場に建立された。この日はまず世話人の上田栄蔵さんが「きょうは日本軍が戦争に突入した日。軍事大国化への道を進もうとしている今こそ、この碑が価値あるものとなったている」とあいさつ。建立の経過を説明した。続いて韓館長が「不再戦の碑を見ることができ、一層喜びの気持ちが募っている。この碑は中日両国人民の友好の(あかし)。両国の人民がしっかりとこの友好を続けていくことを祈る」とあいさつ、約六十人の出席者から大きな拍手を受けた。
「七三一部隊罪証陳列館」は、かつて旧満州ハルビン郊外に本部を置いた日本軍の細菌部隊の実情を明らかにしようとする施設。同部隊の“主役”は医師や軍属だったが、末端の支部の雑務を担った一般兵士は四国出身者(うち本件勢は約百五十人)が中心だったことから韓館長は彼らとの交流も行っている。
韓館長は建立式典に先立って元隊員の一人、弘田益三さん(七三)=須崎市原町一丁目=を見舞った。
弘田さんは七年前、高知出身者でつくる戦友会に出席した際に脳こうそくで倒れて寝たきり状態。韓館長が弘田さんの手を握り「私たちはあなたの友達です。ご苦労されましたね。早く元気になってくだい」と話すと、弘田さんは精いっぱいに手を挙げ、目に涙をにじませていた。
高知県出身者が赴任していたのは七三一部隊のハイラル支部。本部と違って隊員らは主にネズミ捕りなどの雑役を担当、「細菌部隊」の中身についてはほとんど知らされていなかったという。書家の中平松鶴さんや元県議会議長の山本明司さんら約百三十人が戦友会名薄に名を連れねており、毎年のように戦友会を開いている。
また同夜は高知市升形の平和資料館「草の家」で韓館長らを「囲む会」が開かれ懇談した。
1994年(平成6年)9月19日 月曜日
「日中不再戦」碑前祭 50人参列し友好誓う高知で建立2周年記念
「日中不再戦」碑の建立二周年を記念する碑前祭が十八日、高知市の城西公園の碑の前であった。同碑世話人の主催で、市民ら約五十人が参列し不戦と日中の友好を誓った。
この日は日中開戦から六十三周年にあたり、碑は日中戦争で日本が中国に大きな被害を与えたことに対する反省のあかしとして建立された。碑前祭には、中国から来日中の「侵華日軍七三一部隊罪証陳列館」の韓暁館長も参列、「正しい歴史を認識し、教訓を学び、伝えることが、日中友好のいしずえとなり戦争を防ぐ道となる」とあいさつした。
また碑前祭を前に同市の高知城ホールで記念集会があり、中国からの強制連行問題を描いたアニメ「ライヤンツーリーのうた」が上映された。その後、「平和資料館・草の家」の西森茂夫館長が戦後補償の問題について解説。「アジアの人々の声に耳を傾け、心のかけ橋をかけることこそ国際貢献だ」と述べた。
碑の前であいさつする韓暁館長=高知市の城西公園で
聖火リレー高知を走る
アジア競技大会
十月に広島で開かれる第十二回アジア競技大会の聖火リレーが十八日、高知市
译文
毎日94.9.18
七三一部队带来的损失
来自中国遇难者家属的报告 高知市
十七日,在高知市鹰匠街道的NTT广场召开了一场演讲会。演讲会以中国人的立场报告了,在第二次世界大战中,旧日军七三一部队在中国的旧满洲(现东北),进行细菌战和人体实验的所带来的损失等等内容。
演讲会由县七三一部队研究会(栗原透会长)主办。会场中聚集了包括原队员十三人的约一百民市民,大家倾听了由于战后基地附近流行的鼠疫病菌,而失去家人的受害者们的证言。
据曾住在中国•哈尔滨驻扎部队附近的靖福和先生(现60岁)讲述:“在七三一部队撤退前,他们破坏设施的时候,我亲眼目睹了大量马和猴子,老鼠等从基地逃跑的情景。接着第二年,在附近的村子里,鼠疫便大量蔓延,我家十九口人中,十二人在二十日内就死了”。另外,哈尔滨“侵华日军七三一部队罪证展览馆”的馆长韩晓先生(现57岁)讲述了“只有正视历史,才能发展友好关系”。
9.20 高知
“中日不再战纪念碑”纪念仪式高知市
“望中日两国人民友谊长存”
韩先生(七三一部队陈列馆长)致辞
十八日,正值满洲事变过后六十三年,在高知市樱马场的中日不再战纪念碑前,举行了两周年纪念仪式,来访高知的“侵华日军七三一部队罪证展览馆”馆长韩晓(han•shao)先生发表了演讲。韩馆长一行人慰问了须崎市原七三一部队队员,并称呼对方“我是你的朋友”。
在“不再战”纪念碑前致辞的韩馆长(高知市樱马场)
中日不再战斗纪念碑于昭和四十二年,用木质结构建于藤并公园,而正式的纪念碑则在二年前建于樱马场。这天,首先是负责人上田荣仓先生致辞:“今天曾经是日军发动战争的日子。对于想要向军事大国道路前进的此刻,这块碑是有价值的。”他也说明了碑的修建经过。然后韩馆长说道:“能够看到不再战的纪念碑,我的心情越发喜悦。这块碑是中日两国人民友好的象征。祈祷两国人民的友好能够世世代代延续下去”。话音刚落,传来了约六十名出席者雷鸣般的掌声。
“七三一部队罪证展览馆”是想要揭露过去在旧满洲哈尔滨郊外设置本部的日军的细菌部队的实情的设施场所。该部队的”主角”是医生和军人以外的工作人员,不过担负末端支部杂务的普通士兵以四国出身为主(其中本案件约一百五十人),韩馆长与他们也进行了交流。
韩馆长在修建仪式之前,探望了原队员一人,住须崎市原街道第一巷的弘田益三先生(现73岁)。
弘田先生是七年前,以高知出身者的身份出席战友会的时候,突发脑梗从此陷入卧床不起的状态。韩馆长握着弘田先生的手说:“我们是你的朋友。操劳了吧。赶紧早点好起来吧”。弘田先生听后,紧握着手,眼里泛着泪光。
高知县出身的人,到七三一部队的海拉尔支部赴任。据说与本部不同,队员们主要担当抓捕老鼠等杂务,关于“细菌部队”的内容几乎没人知道。书法家中平松鹤先生和原县议会议长山本明司先生等约一百三十人,带着战友会名薄,每年都会坚持不懈地召开着战友会。
另外,当晚,在高知市升形的和平资料馆“草之家”,韩馆长一行人在交流会上促膝长谈。
1994年(平成6年)9月19日 星期一
在“中日不再战斗”纪念碑前祭奠 纪念碑在出席的50人发誓友好共处的见证下,在高知建立2周年。
为了纪念“中日不再战斗”纪念碑的修建两周年,在该碑立碑人的主办下,约十八日,在高知市的城西公园的碑前,五十位市民为了不再战和中日的友好参加发誓。
这一天正值中日开战六十三周年,纪念碑对在中日战争中,日本给中国带来了巨大的损失和伤害这一事件上,做出了反省,并作为证据被修建。碑前祭奠,从中国远道而来的访日中的“侵华日军七三一部队罪证展览馆”的韩晓馆长也参加了,他寒暄道:“认识正确的历史,吸取教训,交流是中日友好的基石,是预防战争的必经之路。”
碑前祭奠前,该市的高知城会场有纪念集会,放映的是关于从中国被强制带走的劳工问题的动画片“raiyantsuri的歌”。此后,“和平资料馆•草之家”的西森茂夫馆长,就战后补偿问题说道:“只有倾听亚洲人民的声音,在心中架起友谊之桥,才是所谓的国际贡献。”
在高知市城西公园碑前致辞的韩晓馆长
圣火传递高知
亚洲竞技大会
十月在广岛举行的第十二回亚洲竞技大会的圣火于十八日,传递到高知市